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熱血スポーツ少女
三人姉妹の末っ子。親子揃って大のスポーツ好きという家庭環境で育った。小野里美之は運動神経のよい姉たちに囲まれながら自身もスポーツ少女へと成長していく。
小学、中学時代は水泳に熱中した。それは、趣味というより競技色の強い関わり方だった。
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インタビュー |
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「簡単に諦めてはいけない」幼い頃から両親に聞かされた言葉だ。彼女の姿勢はここからスタートしている。
「夏休み中、周りの子供たちがどこかへ遊びにいっているとき、私は毎日プールへ通っていました。この頃から時間の過ごし方が周囲と少し違っていたようでした。それが今の私の原風景なのだと思います」
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高校ではバレーボールへ進む。水泳では一定のレベルにあったが、それ以上は伸びないと自ら判断し、新たな道を選ぶ。
「チビでしたが、全身を思いっきり使うゴム毬のようなアタッカーでした(笑)。大きな声でチームを盛り上げるムードメーカーでもあった」
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大学の4年間、そして実業団での一年はレシーバーとしてプレーした。バレーボール時代は、人間の縦と横の関係や団体プレー、個人プレーについて学び、精神的に成長した時期だった。
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大学 バレーボール時代の小野里選手 (写真 中央) |
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運命の出会い
実業団退団後、スイミングクラブでインストラクターとして勤務、この時代に彼女は運命の出会いを二度体験する。まずは夫である小野里完二さんとの出会い。そして彼女が全身全霊で打ち込んだサーフィンだ。
サーフィンを趣味とする夫に同行し、波乗り姿を見ては記録する日々。だが、次第に「私の中の熱血虫がウズウズしてきて」居ても立っても居られなくなっていた。
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夫 小野里完二さん(テコンドー1段)・指導員 |
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プロサーファー 小野里美之選手 |
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「やってみれば、サーフィン」
夫の、この一言が、彼女を天職へと結びつけた。
「やってみたい。やるならとことん!」
思い立ったら吉日である。住まいのある成田から片貝の海まで一年間毎日足繁く通った。ついには、通う時間を惜しんで、難関と名高いサーフィンポイント、一の宮へ引っ越してしまうのだった。
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「プロサーファーになる!」
自分の行くべき道が定まれば、あとは前へ進むだけだ。即決即行。それがオノザト流。
「今思えば、水泳時代に途中で見切りをつけてしまったことがずっと心に引っ掛かっていたんですね。モヤモヤしていたものがあった。だから、新しい自分がいる方へ行きたかったんです」
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ミラクル
ここから、小野里美之の、常識破りの快進撃が始まる。
26歳からサーフィンをはじめ、約2年でプロテストに合格したのは、後にも先にも彼女だけである。小野里は国内、海外のコンテストツアーへ精力的に参加し、着実に実績を積み重ねた。 |
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そして、プロ6年目にして世界年間最高ランキング8位に、ワールドツアーの一戦で3位という偉業を成し遂げる。
これは、日本女子プロサーフィン界において前人未踏の記録である。
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「世界の一流選手たちを前にして、不安よりも同じ土俵に立ちたいという気持ちの方が強かった。やるからには一番にならないと。私は、すべては自分次第なんだと思います。手に入るかも知れないのに無理だと思うのは、自分がそこへ行かないだけのこと」
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千葉道場 徐萬哲師範と |
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オノザト流
小野里は今年でプロ生活16年目を迎えた。プロサーファーとして一流を手にした彼女が、テコンドーと出会うキッカケとなったのは、サーフィン同様、夫の薦めによるものだった。40歳を迎え、惰性的になりつつあった現状に対し試行錯誤していた彼女を思い、一番の理解者がまた新たなる世界へといざなってくれたのだ。
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初めて見たテコンドーは、別世界だった。
海という掴みどころのない相手にチャレンジしてきた小野里にとって、形ある世界は難解に映った。
しかし、難しいからこそ、燃えてしまうのが小野里美之なのである。仕事であるサーフィンにもきっと良い影響があると直感し、即入門を決意した。 |
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「刺激的だった。ゼロの地点に立つことが新鮮だった。また何かに挑戦できる喜び。私の中の“虫”がどんどん大きくなるのが分かりました(笑)」
初めて関東大会を観戦したとき、選手たちの表情に魅了された。こちらに迫ってくる圧倒的な目力。
海と違い、はっきり存在する相手に対し、距離やフェイントなど様々な戦術を駆使して戦う世界。サーフィンにない魅力がそこにあった。
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「サーフィンの世界では、何よりも自己PRが重要視されます。だけど、テコンドーはまったくの正反対。内側に秘めているものに真価が問われている。例をあげれば、トゥルがそうでしょう。たくさん練習を積んでそれを噛み砕き、自分の内側に刻ませてトゥルという枠の中で自己表現する。逆に強さを感じますね」
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ITF副総裁 朴鐘水(パク・チョンス) 師星と |
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スピリッツ
小野里は、テコンドーでも持ち前の負けん気を発揮した。その集中力は半端でない。練習に対する姿勢と感覚。それは、彼女の歩みの中で培われた大きな財産だ。小野里はテコンドーでも着実に実力をつけ、メキメキと頭角を現した。
テコンドーを始めて3年目の2003年5月、ついに全日本大会出場を果たす。結果は2回戦進出。
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試合前 |
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「まだまだ足りないと痛感しました。でも努力が報われる可能性はあると確信できた。気合の入れ方が足りないとか、練習の方向性に手直しが必要だとか、そういう修正をすればきっとできる、そんな手応えがあった」
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マッソギ・インターバル セコンド:徐萬哲師範 |
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そして今夏、ついに世界の大舞台へ。記念すべき第1回目のベテラン世界選手権大会。
小野里は、世界大会初出場とは思えない冷静さで自分の競技を全うし、トゥル、マッソギの両種目で見事金メダルを獲得。じつはこのとき、学生時代から抱えている右膝半月板の古傷が再発し、痛みに堪え試合に臨んでいた。そんなハンディを周囲にまったく感じさせない気概は、あっぱれの一言に尽きる。
勝負の場に弱気や言い訳は決して持ち込まない。これが小野里の、勝負に対する心構え。そして強さの理由である。
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マッソギ試合中 |
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有言実行
サーフィンもテコンドーも、スタートは他人より遅かった。26歳と40歳。通常現役引退を考える年齢だ。
彼女ほどの才能なら、もう少し早くやっていれば、と惜しむ声もあるだろう。だが、小野里の口から「もう少し早かったら」という言い訳が吐かれることは決してない。彼女にとって何より大切なのは、やると決めたら徹底的に、自身が納得するまで貫き通すことなのだから。そのための努力は、辛いことでも何でもなく、至極当たり前のことなのだ。
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ベテラン世界大会 優勝 表彰台にて |
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2004年 ガルーダカップ 優勝 (バリ島) |
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「年齢は関係ないと思いますね。それ以上のものを精神力が補ってくれるんです。人間には肉体を超越する何かがある。そして経験です。私だけの経験が、たくさんのことを教え、力となってくれます」
今夏、ベテラン世界大会を前に、小野里はインドネシア・バリ島で行われた2004年プロサーフィンツアー第2戦「アロハガルーダカップ」に出場、最高得点をマークし優勝を決めた。大会前、小野里は周囲に敢えて優勝を公言した。ケガで練習がままならない状況の中で自らを追い込んだのだ。
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「絶対に勝つ!」
6回中4回優勝している思い入れのある大会で花道を飾り、テコンドーという次のステップを踏みたかった。
そして、有言実行したのだ。
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サーファーご用達の専門誌「月刊サーフファースト」10月号 |
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第1回ベテラン世界選手権大会における |
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小野里美之選手の優勝を伝える記事が紹介された |
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自分を信じる
ベテラン世界大会優勝を機に、小野里の胸は未知の世界への高まりでいっぱいだ。16年に及ぶプロサーファーとしての競技生活に区切りをつけ、テコンドーの扉を新たに開くのだ。「ここからが始まりという気持ちですね。ワクワクしてます(笑)。 |
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今、何でも吸収するスポンジ状態なんです。選手としてはもちろんですが、指導員としても自分の経験を活かしてみんなの役に立ちたいと思っています」
座右の銘は「自分を信じる」。
絶対に諦めない。必ずできると信じる。彼女が一貫してこだわった生き方。
オノザト流で疾走する彼女の軌跡は、溢れる勇気と希望の物語だ。
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格闘Kマガジン取材 |
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